西表パイン園のあゆみ 
   ・平成26年5月 パイン園のあゆみ初版
 
・平成28年5月 パイン園のあゆみ追記 

・令和5年4月 パイン園のあゆみ追記



■住吉集落の誕生

 住吉集落は1948年(昭和23年)10月11日宮古島下地町から宮古群島政府の計画移民として血気盛んな隊員がトドマリ浜(月ヶ浜)に第一歩を記したのが始まりです。 
先遣隊はこの地に後続の部隊の受入の為の寄宿舎造りから始め、ワラ葺きの屋根を2棟と井戸を掘ったと伝えられています。
その後、後続の隊員達を迎え入れ総勢29名の隊員でスタートしました。
翌年(昭和24年)には拠点を宇那利崎地区(現在の住吉集落)に移し名実ともに住吉集落が誕生しました。





 
トドマリ浜にある入植の碑
終戦から3年後29名の隊員は新天地に夢を抱いてこの地に降り立った。


 



■入植当時の生活
 
当時の西表島は食糧難に加え悪性のマラリアが島を覆い尽くし日々の食料にも事欠く有様で、隊員は食糧自給に向けて日夜開墾に明け暮れました。 当時の主食は宮古島から持ち込んだとされる芋が主流で開墾した畑に芋を植え隊員の空腹を補ったと言われています。 


 

入植当初(昭和24年頃)の民家
ワラ葺きの屋根や板を打ち付けただけの壁は毎年襲ってくる台風で倒壊した。(竹富町史ぱいぬしまじまより) 



■家族生活のスタート
 
3次隊の一員として昭和23年12月に入植した父(春光)は先遣隊の隊員と共に家族を迎える為の住宅の建設や食料となる芋畑の配分にとりかかりました。 昭和24年頃から家族の移住が開始され集落は賑わっていきました。父(春光)も母(ヨシ)を迎え昭和25年5月結婚。翌年には長女が誕生しました。その後、次々に年子で5名の子供が生まれ7名の大家族になりました。




 

■芋が中心の食事
 新天地での家族の生活は苦しく芋が中心の生活が暫く続きました。食べ盛りの子供を5名も抱え、生活を支える為に主食の芋を手始めに色々な作物を手がけました。その先駆けがサトウキビ生産で、昭和26年には集落に人馬式のサトウキビ工場も完成しました。その後、稲作を手がけましたが収穫した米は換金作物として農協に販売し、食料の主流はやはり芋が中心でした。

 
  

新天地での家族生活のスタート
昭和25年5月父(春光)と母(ヨシ)結婚、翌年には長女も生まれ西表島での新生活がスタートしました。(昭和28年頃撮影)



■パイナップルの生産
西表島でのパイナップルの生産は昭和31年頃から大富集落を中心とした島の東部地区で開始されたと伝えられています。その後、上原を中心に西部地区に広まりました。パイナップルは台風や干ばつなどの自然災害に強く島の北端に位置するこの地域に最適な作物として多くの農家が栽培を始め昭和35年には中野集落にパイナップル加工場が完成しました。
父や母もその前の年からパイン生産を開始し徐々にその規模を拡大してこの地区で生産農家トップの座を収めました。

 

家族総出のパイナップル収穫風景
土曜日曜はパイン畑の作業に駆り出され勉強よりも親の手伝いが当たり前の時代でした。(撮影当時小6)



■加工用から生食用への転換
これまで発展してきた沖縄のパイナップル生産も自由化の波を受け一気に衰退していきました。西表島でも昭和58年にパイナップル加工場が閉鎖されてからは隣の石垣島にある食品会社に海上輸送での出荷を余儀なくされパイナップル生産農家は窮地に立たされていました。 
西表島からいよいよパイナップルが消滅するかに思われた頃、隣の石垣島で郵パックを利用した生食用完熟パインの全国販売が始まりブームになりました。 この手法を取り入れて西表島でも若い生産農家が生食用完熟パインの郵パック販売を開始、郵便局のネットワークを駆使した取り組みで注文が殺到しました。











 

昭和40年頃のパイン加工場の風景
当時は加工用としてのパイン生産が主で缶詰やジュースに加工され出荷された。(竹富町史ぱいぬしまじまより)
 


■インターネットとの出会い
パイナップルの生産に励んできた父が平成5年4月に病が原因で他界した後は母(ヨシ)が島に残り一人でパイナップルの生産を継続していました。
収穫したパインは都会に暮らす子や孫達に贈ったり、関東に暮らす二女(直子)が経営する美容院でお客様から注文を取り発送していました。そして残りは海上輸送で石垣島に送る事しか方法がありませんでした。
平成7年(1995年)当時千葉県成田市に暮らしていた私は夏に届く母からの完熟パインを全国にPRしたい。その思いで休みを利用し、当時世界的に広まりつつあったインターネット(IT)をマスターすべく秋葉原通いをし、関連機器を取りそろえて行きました。




■西表パイン園の誕生
翌年の夏(平成8年)独学でHTML言語をマスターし西表島の美しい風景写真を取り込んだホームページが完成し 母が生産したパイナップルの注文をメールで受け付けたのが西表島産完熟パインのインターネット販売の始まりです。農園の名称を「西表パイン園」とし、それに合わせて製作したオリジナルの箱に商品を満載し生産者(ヨシ)とともに画像で紹介する手法は当時としては画期的と評価されました。

  

転勤先から夏は農作業の手伝いに
就職後も休暇で帰省し農作業を手伝った(撮影当時37歳)
 

■後継者になって
転勤族として日本全国を家族で異動し32年間お世話になった役所を早期退職し妻(育子)と共に高齢の母の住むこの地に戻ったのが平成22年の春でした。 父亡き後一人でパイナップル生産に励んできた母(ヨシ)から美味しいパイン造りのノウハウを受け継ぎ発展させていく事が父や母に対する親孝行だと思っております。 現在ではパイナップルの種類も増え加工用から生食用に変化して来ましたが、美味しいパイン造りの基本は今も昔も変わらないと言われています。 母(ヨシ)の言葉に「パインもわが子の様に愛情をもって育てれば良く育つ」を肝に銘じ日本一美味しいと評価されるパイン生産者を目指しこれからも日々勉強してまいります。


 


日本一美味しいパイン農家を目指します
公務員を早期退職し父や母の意志を受け継いでパイン農家を継承
(退職当時53歳)
 
 




■農業生産法人化の会社設立
後継者になり父や母から受継いだ農園をかつてのパイナップル圃場に戻すには並大抵のことではありませんでした。開拓当時のように鍬やヘラで開墾した時代は過ぎ、現在は大型重機の時代です。 退職金もすぐに農業機械の購入費や圃場整備の重機代に消えて無くなりました。   資金面に窮し途中で投げ出したくなる事もありましたが妻(育子)の支えと兄弟たちの協力で困難を乗り越えることが出来ました。
 農業は自然が相手の商売です。台風銀座の沖縄では台風を避けては暮らしていけません。 毎年、収穫が完了するまでは気が抜けない緊張の日々を過ごします。
 公務員を早期に退職して5年目の今年(4月)西表パイン園を農業生産法人合同会社西表パイン園として再スタートしました。 会社設立の目的に掲げた「農産物の生産・加工・販売」と「農業に於けるICTの活用」に力点を置きながら「最南端の産地から大自然の美味しさを全国に!」をもっとうにパイナップル生産に励んで行きます。

  
 

圃場の整備作業
雑木に覆われた圃場に大型重機を導入して天地替えを行った



かつての農園に再生したパイナップル圃場
周辺にはパイナップルの香りに誘われてリュウキュウイノシシやイリオモテヤマネコが出没する

  




■地産地消の農園カフェをOPEN
会社設立から5年後、風光明媚な高台に農園カフェを建設しました。 農園カフェ建設の目的は「地産地消」にあります。
 毎年、収穫したパイナップルの1割程度は、異形や打撲などで販売できず冷凍パインにして保存したり、農園周辺に生息するイノシシの餌として投棄していました。 これ等を有効活用して猪カレーやスムージ―等のメニューで販売できれば地産地消の目的を達成出来ると考えています。

 西表島は熱帯果樹や植物の宝庫です 島の自然を生かしながら農薬に頼らないで収穫できる果樹や植物を見つけ出し栽培するのも目的の一つと思います。

 カフェの建設は全て自前で行いました 建築業者の少ない西表島では、新たな建物を築き上げるのに業者の順番待ちなどで2年後3年後は当たり前の状況です。
 基礎の土間打ちからコンテナの設置、トタン屋根の張り付け、看板の製作・設置、トイレ小屋の建設等、必要な作業は全て家族やスタッフの力を借りて自前で行いました。

 (令和5年4月 合同会社西表パイン園 代表:川満弘信)

 

農園カフェ てんぼうだい
高台にあるこの場所は昔から展望台と言われていました



カフェからの眺め
自然の風を取り込む設計はSDGsに貢献します。 天気の良い日には石垣島が遠望出来ます。



人気メニューの「シシカレー」
圃場の周辺で獲れた琉球イノシシを使ったシシカレーは柔らかくフルーティーな味と評判です。(季節限定)